深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義6. 球磨先人の知恵と偉業

6-7. 軽巡洋艦「球磨」の話

 令和元年(2019年)8月15日に74回目の終戦記念日を迎えた。そこで今回は戦前に竣工し、太平洋戦争の末期のマラッカ海峡でイギリス軍の魚雷攻撃を受けて沈没した軽巡洋艦「球磨(くま)」の話をする。遠い昔のことで、日常生活では縁の遠い軍艦であっても「球磨」と名のつく軍艦であれば親しみもわき、その戦歴と末路を知りたくなるのは球磨人の人情である。

 「球磨:くま」は、図1のような大日本帝国海軍の軽巡洋艦であり、球磨型軽巡洋艦の1番艦であった。その艦名は球磨川にちなんで命名された。水雷戦隊の旗艦を担うために「球磨」は5500トン型軽巡洋艦14隻(球磨型5隻、長良型6隻、川内型3隻)の最初の艦として建造された。主砲には14センチ単装砲を7門装備、3番、4番の砲が両舷に分かれて設置されているため、片舷への同時砲撃は6門、1~4番までの4門が前部に5~7番までの3門が後部に配置されていた。
長門型の戦艦でさえ竣工時は8万馬力だったのに完成当初は9万馬力で36ノット(66。7km/h)という超高速を誇り、大正14年発行の呉新聞には「列車以上の拘束力」とある。さらに同艦は、14センチ砲を7門、53センチ魚雷連装発射を4基備えた当時としては強武装を誇った。
先ほどの、球磨型の5隻の軽巡洋艦というのは、多摩川にちなんだ「多摩」が2番艦、3番艦は北上川にちなんだ「北上」、4番艦は大井川にちなんだ「大井」、そして5番艦は木曽川にちなんで名付けられた「木曽」である。いずれも有名大河の名を付した戦艦であったがほとんどが沈没か大破の戦歴であり、「北上」だけが帰港し工作艦として終戦を迎えた。

球磨 屑鉄
図1. 軽巡洋艦「球磨」 図2.引き上げられた「球磨」の残骸
(写真1・2の出典:THE STAR ONLINE  Nation)

 「球磨」は、1918年の8月に佐世保海軍工廠で起工、翌年7月に進水し、1920年8月に竣工した。就役後すぐにシベリア出兵のための日本軍の上陸を掩護(えんご)する任務についた。続いて、中国の遼東半島先端部の旅順を拠点として関東州から中国山東省の青島にかけての中国沿岸の哨戒にあたり、その後、1934年末ごろ、魚雷発射管と九 四式水上偵察機のような水上偵察機を発進させるためのカタパルトを装備する改装を受け、中国海岸の哨戒や中国中部への日本軍の上陸を掩護した。1937年から翌年秋まで、山東省の青島を拠点とする伊号潜水艦の機雷潜戦隊の旗艦となった。1941年~1942年にかけえてフィリピン侵攻、ニューギニアでの活動をしていたが、マラッカ海峡付近でイギリス海軍の潜水艦に発見され、2発の魚雷を受けて沈没した。乗組員138人が戦死した。

 「球磨」にも艦内神社(かんないじんじゃ)があった。艦内神社とは、軍艦や艦艇などの内に設けられる小規模の神社のことで、法令上の根拠はなく、関係者の任意によって設けられたもので、もちろん、専任の神職は存在いない。「球磨」の艦内神社は「市房山神社」だったとの当時の新聞記事を、錦町の戦争遺跡整備による町おこしをされている福田 晃市さんからいただいた。市房山神社の遥拝所である湯前町の「里宮神社」では、福田 晃市さんらの肝いりで、軍艦「球磨」の模型や往時の「球磨」の雄姿が境内に掲示してある。ちなみに、球磨型軽巡洋艦の2番艦、多摩川に因んで命名された「多摩」は、東京都府中市の「大國魂神社」から立派な艦内社殿の寄贈を受けて出陣したが魚雷3発を受けルソン島沖で沈没した。

 球磨型5隻の軽巡洋艦もまた、船霊ふなだま:航海の安全を願う神)の効験なく大破ないしは撃沈された。なかでも「軽巡洋艦 球磨」のその後は哀れである。沈没船体は、2004年にオーストラリア人のダイバーやシンガポールを拠点とする調査船のダイバーによって発見された。しかし、2014年になって、マレーシアのサルベージ業者が、無許可で違法と知りながら屑鉄目当てに「球磨」を切断して引き上げ、トンあたり2万円で売却したという。図2は、THE STAR ONLINEで紹介された無残にも切断され、引き上げられた「球磨」である。海底での鎮魂を祈った元乗組員の遺族は決して見たくない写真であろう。


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